2012年3月17日土曜日

「仕事」と「責任」について

先日、スタッフと「仕事」や「責任」について考えてみました。

責任の範囲が広ければ広いほど、周りや社会に必要とされる範囲が広がり、自分の存在価値が高まり、自分を豊かにしてくれる。そして、その存在価値を高めることで、周りや社会から守られるのではないか?つまり、責任の範囲の広さが身を守ってくれる保険のような役割をしてくれているのではないか?などと考えてみました。

『三人の石切り工の昔話がある。彼らは何をしているのかと聞かれたとき、

第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。

第二の男は、つちで打つ手を休めず、「国中でいちばん上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。

第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大寺院をつくっているのさ」と答えた。』( マネジメント下:ドラッカー著より)

この文章から、第一の男は生活のために仕事をしなければならないと考え、第二の男は名声のために仕事をしなければならないと考え、第三の男は地域社会のために仕事をしなければならないではなく、したいという気持ちが伝わってきます。同じ仕事をしているのですが、この三人の中でどの男の人生が明るく豊かに見えますか?第三の男の生活は、物質面で豊かなのかどうかわかりませんが、明らかに心の豊かさを感じさせてくれます。

一般的に仕事は、「~ねばならない」、あるいは「~すべき」という義務的な感覚につながりやすいようです。確かに仕事をしなければ収入が得られずに生活ができない。色々な考え方の中に「~すべき」「~すべきではない」という倫理道徳的な義務感につながる考え方、あるいは信念的な制限が隠れていると、心身共に緊張が生じ、目には見えない慢性的なストレスとして病気などを引き起こしやすくするかもしれません。

私たちは、何らかの信念を持って人生を生きています。「信念岩をも通す」ということわざがあるように、信念をもつことの大切さを教えられてきました。人は、様々な信念に基づいて生きていますが、この信念の中には意識的に分かっている信念と、無意識的で普段は意識していない隠れた信念があります。コーチングではその隠れた信念による制限に気づき、それに代わる信念を見つけることで、学びを深め、さらなる成長へとつながることができます。

例えば、「私は~すべき」あるいは「~すべきではない」。または「Aさんは~すべき」あるいは~すべきではない」という信念がある場合、どんな気持ちになりますか?おそらく心地よくない感覚になり、身体も緊張するのではないでしょうか。「逆境から立ち上がる」というシナリオを好むタイプの人は、あえて自分をマイナスな状況に追いやって、その苦難から這い上がることをエネルギーにすることを好んで繰り返す人もいます。

もしも、「~しなければならない」という考え方に関して、行動するかしないかは別として、「~ねばならない」という考え方を捨てたらどのような感覚になるでしょうか。その「~ねばならない」という考え方を捨てて何も失うものがなければその考えを捨てるという選択ができます。多くの場合、その「~ねばならない」とう考え方を捨てても何も失うものがなく、習慣的に単に自分に制限を加えて窮屈にしていることが多いようです。

一般的に仕事の報酬は、「収入」や「地位」、あるいは「名声」というものを追い求めがちですが、田坂広志さんは、著書の中で仕事をすることによる「目には見えない三つの報酬」を述べています。

「仕事の報酬は能力である」

「仕事の報酬は仕事である」

「仕事の報酬は成長である」

仕事を通じて様々なスキルが身に付くと、その人にはその能力にあった仕事や責任、権限が与えられます。そして、様々な仕事を通じて、人間としての成長が約束されます。責任の質が高まることで成長も高くなります。その過程の背後にあるのは「継続的な喜び」です。その一方で、収入や地位を目的に仕事をした場合、その背後にあるのは、「一時的な喜び」と「義務感」ではないでしょうか?

さて、今与えられている「仕事」と「責任」をあなたはどのように考えますか?

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