2012年10月4日木曜日

自由というルールの鳥かごにいる自分

「自由という鳥かごの中に自分がいるような気がする」

これはある患者さんが気づかれたコメントでした。

誰にも束縛されることなく自由に生活ができているその一方で、自分でレールを敷いて、どの方向へレールを向けるか、ルールを決めて生きていかなくてはならないという責任。そこには義務が伴い、自由であるはずの自分が自由でないような感じになってくるという矛盾に気づかれたとのこと。

また、自分で敷いていくレールも本来はいくつかの選択ができるレールがあってもよいはずであるが、一本のレールしかないような錯覚をしていたとのこと。その背後には「変化」することに対して過敏になっている自分に気づいたとのことだった。

この患者さんは、症状に関連する「緊張パターン」を通じて自分の生き方や人生についての気づきを得ている様子。どのような生き方がいい悪いという議論もあるだろうが、まずは、自分に合った生き方を見つめなおし、現実の社会にうまく適応し、調和できるように変化していく段階なのかもしれない。

急ぐことはない、自分に合ったペースでゆっくりと適応すればよい。

人は自由を求めるが、いざ自由を与えられたとき、何をすればいいのか、どの方向に行けばいいのか分からなくなる傾向もある。自由という「考え方」に縛られるということもあるだろうし、何が自由なのかが分からなくなるということもあるだろう。

人は多かれ少なかれ、何かの組織に属していると言えるのではないだろうか?例えば、夫婦、家族、サークル、グループ、学校、会社、団体、都道府県、国、地域、地球という具合に、何らかの組織に属している。

ただ、その組織には、ルールが存在するから自由が奪われているように感じる。例え無人島で一人で自由に生きていくにしても、自分で作ったルールに従って生きなければ、自然環境に適応できなくなるだろう。そこには自然という厳しいルールがあるからである。

人は人と関係し合いながら生きている、そして、その関係性にはルールが伴う。自分が作ったルール、他人が作ったルール、組織が作ったルール、あるいは表にはでない暗黙のルールというものもある。そのように考えると自由というものはルールがなければ存在しないということがいえるだろう。

逆にいえば、ルールがないところには自由というものは存在しないということにならないだろうか?自由という何らかの欲望を実現するためには最低限のルールが必要なのだろう。ルールがあって初めて、自由という欲望が現実に満たされる。

本当に自由を感じられる人は、大なり小なりの組織の関係性の中で自分と他人、あるいは組織のルールを明確に認識しながら、互いのルールを尊重し、互いのルールをすり合わせながらうまく適合させていくことで、自由という欲望を生み出しながら生きていく人なのかもしれない。



戦争のない平和な社会では、人との関係や組織との関係を持つか持たないかの選択の自由は平等に与えられている。一人であろうが他人や組織との関係性の中で生きようが、ルールというものは存在する。そして、そのルールを尊重し合わなければ、本当の自由はありえないということなのだろう。

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