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2020年5月28日木曜日

LCA人間学勉強会を終えて「本質を見抜く

2020年5月24

今回のLCA人間学のテーマは「本質を見抜く」でした。本質とは何か?とても幅広く深いテーマです。私はセミナーで治療法を指導させていただく立場の人間として、以前から「本質的・・・」という言葉をよく口にしています。今回の勉強会を通じて、私が話している「本質とは何か」というその伝え方を改めて工夫しなければならないと思いました。

治療、施術に関しての「本質」というと、症状の原因は何かということ。対症療法に対して原因療法の方が、より「本質」といえるでしょう。でも、もしかすると、人によっては原因療法であれ、対症療法であれ治ることが「本質」であれば、治る過程や症状の因果関係などは関係ないと言い切るかもしれません。

このように考えると「本質」の正しい答えというよりは、その人それぞれに考える「本質」があるということにもなります。でも、私は症状が「なぜ治るのか、なぜ、治らないのか」にとても興味があり、治療家としてずっと結果を追求してきました。そのような意味では原因療法、本質的療法を追究し、ある意味ではそのことに執着してきた治療家だといえます。

治療家の中で根本療法といっている人に遭遇することがありますが、症状の原因と結果を追求すればするほど、「根本」とは言えない深い領域があることは認めざるを得ないと私は考えています。それが故に、「根本療法」とは言い難いところがあり、その方向性を含めて本質的療法という様にしています。

今回の「本質を見抜く」というテーマで、治療法に限らず、物事の見方捉え方において、本質を見抜くためには「蟻の目、鷹の目、魚の目」で多角的、多面的にみる観方も大切だという話もしました。「人生万事塞翁が馬」という「本質」に触れたことわざの様に、今はコロナ禍で不幸に悩まされても、その不幸が原因で幸運を引き寄せたという話はよく耳にします。

大切なのは、この困難をどのように受け止めて、どのように今を生きるか。私たち自身の「本質」が今問われているのだと思います。もしも、今回の禍を否定的にだけ受け止めるのであれば、それはあなたにとっての「本質」になるでしょうし、肯定的に受け止めるのであれば、それもあなたにとっての「本質」なのだと思います。

私は今回のコロナ禍によって、自分自身の成長が試されているような気がしています。「今までに考えたことのない『知恵』をもっとだせ」と誰かが叱咤激励している様な声が聞こえてきます。

2020年4月30日木曜日

LCA人間学勉強会の報告 2020年4月26日 14時〜15時まで(1時間)

皆様、こんにちは、LCA代表の保井です。先日、LCAスタッフと人間学に興味のある先生方を交えて、人間学の勉強会をZOOMで開催しました。ファシリテータは保井が努めました。勉強会の教材には、人間学誌「致知」の総リード(冒頭文)の「人を創る」というテーマの1ページを使いました。参加者にはあらかじめ課題を読んでいただき、感じたことをフィードバックしてもらいました。教材を読んで勉強会前に感じたこと、勉強会の後に感じたことをそれぞれフィードバックしていただきましたので、一部ご紹介させていただきます。

人間学誌「致知」の総リード(冒頭文)を「人を創る」を読んで感じたことを箇条書きにしてください。(勉強会前のフィードバック)


     孟子の言葉「天下国家を思うならもっとも身近な我が身を修めよ」とあるように何かを始める時にはまずは自分の人間力を磨くための努力をすることの重要さを再認識しました。そして人間力を磨くためには日常のほんの小さなことからも磨く事ができるものだと感じる事ができました。
     「他責の人でなく、自責の人であれ」と「人生全てが当たりくじ」という言葉に同じことを思いました。コロナによる影響です。世の中が不景気になり将来の心配をしていたのですがむしろこの出来事がチャンスであると心から思う必要があると気づかされました。どんなことでも、最終的には自分の心次第なんだと思います。
     肯定的な意図が見え隠れする患者さんで、こちらに依存してくる人がいると、以前は患者さんのせいにしていましたが、人間学の勉強を進めると、だんだん私自身の問題なのかな〜と感じるようになりました。
     治療院経営において成功していく為の集客方法や治療テクニック、会話技術などの戦術に関する情報は世の中に大量にある。それらを身につけて実践していく事も大事だが、それ以前にその戦術を使いこなす自分自身の人間力、あり方、器が最も大事である。それがなければいくら小手先のやり方を身につけたところで末永く繁栄してゆくことはできない。
     この人生において人間力を身につけて大きな人間になっていこうという目標を持ち、そこを目指そうと揺るがない決心をする必要がある。 生きていくと辛い事、悔しい事、嫌な事はたくさんあるが人のせいにしないで、目の前の結果は全部が自己責任だと引き受けて全力で生きて行くことが大事である。心を磨き人間力を身につけていくことが大事。



 今回のセミナーで心に残ったフレーズを箇条書きにしてください。(勉強会後のフィードバック)
     自分のやっている事を自分自身が納得できているか!
     ドロドロした人間関係の中で自分を磨く。不愉快、ジェラシーを感じる時に、自分の中のどこからそれがきているのか他責ではなく自責で考える。
     居心地の悪いところに身を置くことで自分を磨く。居心地の悪さを感じながら行動していく。
     3秒で行動する。やらない思考が浮かんでくる前に動く。
     知識をつけるよりも自責の念を常に持って実践していく。
     自分の行動に、自分が納得できるか?自分を振り返ることができるか? /心の流れを見れているか?
     日常の小さなことから学べる。人間力は、苦悩の中から学ぶ。目の前で起きていることは、どういう意味があるのか?
     人間力を身につけることが大事。人との関係性の中で人間力は磨かれる。
     心が動いたときそれを客観視する必要がある。心が動いたときに自分の理論で相手を攻撃してはいけない。そこから学ぶことが大事。
     居心地が悪く苦手だと思う環境こそ自分を成長させ磨いてくれる場所。居心地が良く自分が優位に立てる場所ばかりに留まってはいけない。
     自分自身が育たないとまわりは育たない。
     治療技術だけにひかれて集まった患者さんは治ったらすぐに離れていく。人間力に惹かれると長い付き合いとなる。
     おごり高ぶらず謙虚に常に学び続ける。他者への感謝、優しさを忘れてはいけない。
     人の批判をするのではなく自分ができる事に意識を向ける。すべては自己責任である。
     この様な勉強会に参加するにあたり、自分の考えを話す事が恥ずかしい気持ちや、自分の至らない考えがばれてしまうという怖さなどもありましたが、とても良い学びになりました。参加させて頂きまして本当にありがとうございました。

 今回の学びを実生活でどのように活かしたいですか?箇条書きにしてください。
     心が乱れている時は、他責になっている。心の流れ・動きを意識する。日常生活の中で、自分の心を磨く。
     どんな患者さんでも、自分に意味がある。
     自分の行動に、自分が納得できるのかを意識できるようにする。他人ではなく自分の内側に注目する。
     楽な方向、心地よいと思う方向に進もうとする自分を律して即行動を心がける。
     自分を磨くことにコミットする。自己責任の気持ちを常に忘れずに生活する。
     常に神様が見ているという意識を忘れない。
     ただ流されて生きるのではなく、今後の人生で人間力のある人物に成長していくという事を決意し、今日からそれを意識して生活する。その上で治療師として経営者として具体的な目に見える結果を出し続け、世の中に貢献しながら繁栄していきたい。

私自身は20年ほど前に人間学の勉強の必要性を感じて、それ以来、コツコツとことあるごとに勉強してきましたが、いつになっても反省することばかりです。人間学関連の本や雑誌を読んだり、勉強会に参加したりしてきましたが、やはり大切なのは日常生活の中から培われる経験、体験で、そこからでしか本物の人間力は養われないのだと考えています。本勉強会では、ご自分の経験や体験を通じて、自己を振り返り、それをメンバーと共有することでさらに人間力を磨いていく場になっていると思います。興味のある方は、次の機会にぜひご参加ください。



2019年12月7日土曜日

「自責」と「他責」どちらが健康的でしょうか?

人は様々な「ストレス」に遭遇しながら生かされています。「ストレス」と聞くと、精神的にネガティブなことだと思われますが、ポジティブなストレスもあります。それは、人それぞれに捉え方、解釈の仕方によって受けるストレスがネガティブになったりポジティブになったりするからです。例えば、あるプロジェクトの責任者に任命された時、Aさんは、「責任者として様々なことを犠牲にして、大きなストレスを抱えなくてはならない・・・」と悲観的に捉えるかもしれません。その一方でBさんは、「このプロジェクトを進めていく過程で、多くの学びを得て、将来の成長のための糧にしよう・・・」と楽観的に捉えるかもしれません。

人間関係において、多くの人が「ストレス」を経験します。自分の部下やパートナーに、期待しているような行動がみられない時、あるいは、自分の上司や周りの人たちに期待しているような評価をしてもらえない時などは「ストレス」を感じやすいと思います。様々な人間関係において、「捉え方」「解釈の仕方」は様々です。大きく分けると「他責」にするか、「自責」にするかです。他責の場合、「自分は正しい」「自分は被害者だ」ということを誰かに分かってほしいということに意識が向いてしまう傾向にあります。一方、自責の場合、「自分のどこに問題があったのか・・・」「自分の何がそのようなことを引き寄せたのか・・・」というような意識が働く傾向があります。

さて、人間関係や組織の関係性において、「他責傾向」の人と「自責傾向」の人では、どちらの方が発展的で、成長への方向へ進みやすいでしょうか?また、どちらの方が健康的でしょうか?ある問題が生じた時、「他責傾向」の人は、問題を解決するために、責任や原因の所在を他者や環境に求めていきます。そうすると、他者が行動を起こさない限り問題は解決しませんし、自分自身が行動を変える必要性は無くなります。そして相手を非難するだけの傍観者になるでしょう。その一方で「自責傾向」の人は、自分の何がそのようにさせたのか?自分の何がそのような問題を引き寄せたのかと考え、自らを変えようとして行動に移して問題解決へと導いていきます。誰がみても99%相手の責任だとしても、「目の前にある課題は、自分の何かが引き寄せた結果であると解釈してその課題に向き合う人もいます。

「自責傾向」の人と、「自虐傾向」の人とは性質が異なります。「自責傾向」の人とは目の前の問題や課題を自分自身の学びや成長の糧にする人です。「自虐傾向」の人は、自分を卑下して、他者からの哀れみを引き寄せようとする傾向のある人です。もしも、それが長期的な心の「クセ」になると、人生は明るいでしょうか?「他責傾向」の人と「自責傾向」の人ではどちらが人生をポジティブに豊かにしていくでしょうか?あなたは、「他責傾向」や「自虐傾向」の人のそばにいたいですか?それとも「自責傾向」の人とともに人生を歩んで成長をしていきたいですか?

人生において健康を維持することはとても大切です。これは、多くの患者様の健康をサポートさせていただき感じることですが、人生に豊かさを感じるのは、様々な問題を自分の課題として向き合う「自責傾向」の人達です。人生の中で「他責」にしたり、「自虐」になったりする経験は誰もがすることかも知れません。私自身も長い人生経験を通じて、「他責」にすることが多々ありました。今でも時折他責にしてしまうこともあります。振り返るとそこには反面教師として学ぶことはあっても問題解決や自分の成長にはつながりませんでした。やはり、自分自身が変わることで現状に変化が現れていました。これは頭で理解しても何も変わりません。実際に行動に移すことで知らず知らずのうちに変化が生じるものです。

恐らく、多くの人は「自責」で考えた方が自分の人生や健康にとっていいとは分かっていても、時には他責的な発言をして共感を示してほしいと思うことことがあるでしょう。私たちはそのような患者様の気持ちをできるだけ理解し、耳を傾けるようにしています。そして、患者様が「自分の気持ちが理解されている」と十分に感じられると、徐々に自責の思考へと変化していく方も少なくはありません。その変化は内容によっては長い期間を要する場合もありますが、私たちは患者様の気持ちを徹底的に理解し、寄り添いながらサポートすることが大切だと考えています。

人生は山あり谷あり、人は人とのつながりの中で生かされています。もしも、現在抱えている人間関係などの問題や課題が「他責傾向」の罠にはまっているのであれば、今一度ご自身の思考パターンや行動パターンを見つめ直す機会かもしれません。他者はコントロールできません。コントロールできるのは自分自身です。「自責傾向」へとシフトして考えることは、人生を豊かにし、健康を維持していく上でとても大切なことになると思います。さあ、「自責」「他責」、あなたのどちらの傾向なのか今一度見直してみましょう。

2019年11月28日木曜日

「健康」と「運気」の安定

先日、田坂広志氏の最新の著書、「運気を磨く 心を浄化する三つの技法」という本を読みました。当院で行っている心身条件反射療法(PCRT)という施術法の根底にある「考え方」が如実に表された内容だったのでとても感銘を受けました。『なぜ、ポジティブ思考が、逆効果になるのか』、並びに『「良い運気」を引き寄せられない本当の理由』が説明されていました。田坂氏によると、いくらポジティブ思考でポジティブなことを表面的に考えていても、無意識的にネガティブな想念がある以上「良い運気」を引き寄せることはできない・・・そして、本当に「良い運気」を引き寄せたいと思うならば、心の中をポジティブな想念で満たす前に、何よりも、心の中に数多く存在するネガティブな想念を消していかなければならない・・・と述べています。

つまり、心の奥にある無意識的なネガティブな想念を消してからポジティブ思考をしなければ逆効果になってしまうということです。このことは、当院で長年研究してきた本質的な施術法の原理原則に通じるものがあり、慢性症状の多くが、心の奥に隠れている無意識的な想念に関係しており、その想念を認識し、書き換えることで症状が改善し、さらには健康を取り戻すことで「運気」も改善している様子がうかがえる実例を数多く経験させていただいているので、田坂氏が伝えたいことはよく分かります。また、田坂氏は科学研究者としての立場から「運気」というものを明らかにしたいと考えており、そうした視点からの「科学的仮説」についても紹介しています。

私は「健康」を研究する臨床家として、長年多くの患者様の健康をサポートさせていただき、「健康」=「安定した運気」というような感覚を持っています。「不健康」=「不安定な運気」のときで、その原因は田坂氏が述べているように、無意識の世界が「ネガティブな想念」で満たされていることが多いようです。「幸せになりたいと願いながら、不幸を引き寄せる人」というテーマでは、心理学者の仮説を引用して、その原因は自分でも気づいていない無意識の世界が自分の行動を支配してしまい、人生の選択を誤らせてしまうことがあると述べています。

多くの人々は何事も「意識」でコントロールしていると思いがちですが、実は意識する以前に「無意識」にコントロールされているのです。このことは、近年、科学研究者によっても述べられています。有名な心理学者が共通して語っている無意識の世界を要約すると以下の通りです。

第一 「無意識」は「意識」の世界からは明確に自覚できない。
第二 「無意識」の世界は力強く、「意識」の世界に大きな影響を与えてしまう。
第三 「無意識」の世界に働きかけて、それを意識的に変えることは容易ではない。

当院ではこの「無意識の世界」を十分に踏まえて、生体反応を利用した「体に聴く検査」を行って、「無意識の世界」を探索します。そして、健康を阻害している「無意識の想念」を認知してもらい、それを書き換える調整を行っています。その結果として症状が改善し、健康を取り戻すことができます。心と身体の関係性、「心身一如」という観点から、慢性症状が心の奥にある「無意識」と関係するということは、頭で理解しても体験しないと信じられないということもあるかもしれません。当院では「無意識の気づき」によって、症状が改善される患者様が多いので、無意識の世界の影響は理解しやすいと思いますし、さらには、その気づきによって「運気」も上向きに向かっているということも合わせてご理解いただければと思います。「無意識の世界」を明確にして「健康」と「運気」の安定を維持していきましょう。

2019年7月11日木曜日

治療者の「志」

先日、セミナー後の懇親会で若い先生方とお話しする機会を得ました。それぞれに課題があり、毎回同じ症状を訴える患者さんのことなど色々な話題がありました。開業して1年目で経営的に苦労されているという先生もいました。私も経験がありますが、開業1年目はこの先どうなることかと不安がよぎることが多々ありました。1年目、2年目、3年目と患者さんとのご縁と信頼関係で不安を乗り越えていくことができました。当時はインターネットの普及率が数パーセントの時代でしたので、現在のようにネットを通じて広告するというようなことはない時代でした。でも、開業してからの25年を振り返ると、広告ではなく、口コミによる信頼関係によって支えられたのだと思います。

あの苦しい時期をどのように乗り越えたのか、何が良かったのかは一言で答えることはできません。「運」が良かったから、あるいは「お陰様で」ということは言えると思います。でもその「運」をどのように創ってきたのかという観点で見れば、色々な要因があると思います。一つ言えることは、ハウツウ的なテクニックで患者さんが集まってきたのではないことははっきりと言えます。開業して間もない先生にとっては、何かいいアドバイスはないかと悶々としているのではないかと察しますが、コーチング的に言えば、答えはご本人が持っているのだと思います。

敢えて、私の経験を振り返って見ると、なぜ、治療者【鍼灸師、柔道整復師、カイロプラクター(DC)】という職業を志したのか、そして、なぜ、カイロプラクティックの治療院を開業したのかという動機に邪な志がなかったかどうかだと思います。邪な志が全くなかったのかと問われると、全くなかったとは言い切れませんが、軸足としては高い志を目指していたと思います。私を支えてくれた父は、私の留学時代に長い手紙のやり取りの中で、人としての在り方を教えてくれていたように思います。また、整骨院修行時代でも、そこの院長が臨床家としての在り方や人としての義理や人情を教えてくれました。その教えにはどのように患者を集客するなどといった教えは一切ありませんでした。

さらに、治療院経営者としての在り方を学ぶために、患者さんからご紹介いただいた経営人間学講座にも10年ほど参加させていただき、中国の古典や帝王学などから解説された経営者としての在り方も学んできました。そこでもお金儲けの話などは一切ありませんでした。私が現在治療者として生かされているのは、運良く人としての在り方を教えてくれた何人かの恩師に巡り会えたお陰だと思っています。人間学だけでなく、治療に関係する学術的なことも継続的に学んで来ました。振り返ると「人間学」と「治療技術」を両輪のように熱心に学んだ時期は患者さんも右肩上がりで増えてきていたと思います。

昨年ごろより、社内でスタッフと共に「人間学」の勉強会を再開していますが、その勉強の深さに伴って、患者さんもだんだんと増えてきているのが分かります。なぜ、「人間学」を学ぶことで患者数が増えるのか?色々な要因があると思いますが、一つは、チームで同じテーマを話し合うことで、共通の理念、志が自然に生まれてくるのだと思います。人としての在り方を深く洞察して自分の言葉で語ることで自分を深く反省し、思考の枠組みの幅が広がってきます。その結果、自然に患者さんとのコミュニケーション力が変化して、マニュアル的に接するのではなく、心と心、魂と魂との触れ合いへと進化し、一人一人の患者さんのニーズを自然に察知できるようになるのだと思います。

人と人の触れ合いの質が高まると、必然的に来院してくださる患者さんの満足度も上がり、困ったことがあれば相談してくださり、知り合いに困っている人がいればご紹介して下さるのだと思います。治療者の基本は、治療技術も大切ですが、人としての在り方がそれ以上に大切で常に磨きをかけていかなくては、治療者としての存在価値が上がらないのではないかと考えます。

経営の神様といわれたピーター・ドラッカーの著書の中で語られている有名な寓話として、「3人の石切り工」の話があります。旅人がある町を通りかかると、3人の石切り工が働いていました。そこで、「あなたは、何のためにこの仕事をしているのですか?」1人目の石切り工に尋ねました。すると、「生活のために働いている」と答えました。次に2人目の石切り工に尋ねました。すると、「最高の石切りの仕事をしている」と答えました。最後に3人目の石切り工に尋ねました。すると「教会を建てている」と答えたという寓話です。この話は様々な職種のリーダー達に語り継がれています。

この寓話を治療者として経験を交えて解説してみたいと思います。結論的に開業25年を振り返り、私の中には3人の石切り工の要素が含まれていたと思います。開業当初はこのままで治療院が継続できるのか、生活のために他の職種につかなくてはならないのではないかという一抹の不安を抱えながら仕事をしていました。それから治療院が安定してくると、修行時代からの課題である最高の治療技術を身に付けたいと治療法の勉強や臨床研究に熱心に取り組みました。そして、自然療法の本質がある程度見えてくると、その治療法を広めて大きな組織(教会)を創って、多くの人に貢献したいと考えるようになりました。そして、現在では地域の方々に喜ばれ信頼される治療院経営とさらに治療法を進化させ、治療者の先生方にその治療技術を広める活動を行なっています。

振り返ると、私の思考の多くが「なぜ・・・」ということが基本にあり、「どのように・・・」というのはあまり重要ではありませんでした。現在でもまだまだ臨床で研究し続けていますが、イレギュラーな現象があると常に「なぜ・・」という思考が働きますし、経営に関しても「なぜ、治療院を経営しているのか」という原点になる問いかけは忘れないようにしています。治療法、経営、そして人としての在り方に関しての勉強はこれからも永遠に継続していきたいですし、さらに磨きをかけることで多くの人に喜ばれる自分になれることを信じています。

「どんな職業の人もその職業に死ぬ覚悟がないと本物になれない」という言葉があります。以前、弊社が主催するコーチングのトレーニングで、あるワークをしていた際、自分は今の仕事に命をかけているのだということを知ることができました。自分を客観的に観ることでなるほどと思いました。命をかけるというと、何か悲壮感が漂うかもしれませんが、私にとって命をかけることのできる職業に巡り会えたことは何よりの喜びであり、これからの100年時代に向かってこの職業をさらに価値あるものに引き上げて、同志を増やし喜びの輪を広げていきたいと思います。

2013年10月31日木曜日

北尾吉孝著 「出光佐三の日本人にかえれ」を読んで

先日、本屋さんでたまたま出光佐三さんについて書かれた本が目にとまりました。以前から出光興産を創業された出光佐三さんは立派な方だと父親から聞かされていたのですぐに購入しました。日本には心から世のため人のために尽くされた素晴らしい経営者がたくさんいますが、出光佐三さんもその一人で畏敬の念を強く抱かせてくれる人です。

この本を読んで、心から世のため人のために尽くす人は、天が守ってくれるのだと改めて考えさせられました。出光佐三さんは終戦直後の混乱期に「愚痴を止めよ、世界無比の三千年の歴史を見直せ、そして、いまから建設にかかれ」と社員を鼓舞しています。

私たちは、震災後の復興は身近に感じていますが、敗戦の絶望的な状況下では、それとは異なる異質の失望感が全国民に漂っていたのではないでしょうか。終戦時、出光は多額の借金を抱え、国内には560人の社員、海外には800人の社員がいたといいます。そして、日本に引き上げても仕事はありません。常識的には一度社員に会社を辞めてもらい、いい人だけを選んで再建策を講じようというのが普通の経営者の判断ではないでしょうか?

会社の重役からそのような提案が出された中で、「社員を解雇することはまかりならん。」として家族主義を貫かれました。あのような悲惨な戦後に「うちは一人も解雇しない」という決断はよほどの覚悟がなければできないことだと思います。

また、当時の茫然自失の状況下で、その社長の覚悟にどれだけ社員が勇気づけられたか、また、深い愛情を感じただろうということを想像すると目頭が熱くなります。「和」を重んじる日本人の誇りを感じざるをえません。

このような立派な創業者の背後に感じさせられるのは「陰徳」の力です。この本の著者である北尾吉孝さんも強調していますが、出光佐三さんご自身も徳を積まれた人です。ご両親、教師をはじめとする多くの徳を積まれた人との出会いを通じて、どんどんと運の力へと転化されていったように感じます。

出光さんは「僕ぐらい運のいい者はないだろう。」と云っています。その運とはご先祖からの余徳であるといい、もしも、いいことをしていけばその余徳は子孫に伝わっていき、悪いことすればその余徳は一代で消えるというような教えも述べています。そして、「先祖から受けた徳は子孫に受け継いでいかなければならない。」と云っています。

実際に出光さんの歴史を振り返ると運のいい人ではありますが、出光さんご自身がその運に慢心せずに陰徳を積み続けてこられたように思います。運のいい人には、運のいい人との出会いがありますが、言い換えれば、徳のある人には、徳のある人との出会いがあり、ご縁があるということだと思います。そのご縁を自分の欲のために使えば、徳がなくなりますし、世のため人のために使えは徳を積んでいくということになるのでしょう。

弊社の社訓の一つに「徳を積む会社、陰徳を積む家、陰徳を積む人を心がけよ。」とありますが、本書を読んで、改めて色々と反省させられることが沢山ありました。

「『徳』が先で、『財』は後」ということを改めて実践していきたいと感じさせてくれた貴重な本でした。




2012年7月16日月曜日

自然体で「感謝」できるために

・・・いつも「感謝」しないといけないですね。・・・
とある患者さんが話されていました。

私たちは「感謝」することは大切だと思いつつも、感謝することを忘れてしまいがちになります。表面的に感謝するのは簡単ですが、心の奥から本当に「感謝」するのは簡単ではないかもしれません。では、自然体で心の奥から感謝できる背景には何があるのでしょうか?

人が感謝するとき、「有難い」と言います。その意味は、字のごとく有ることが難しいという意味で、めったにないことに感謝するさまをいいます。人間という生き物は、寄り添ってくれる人やモノ、食べ物などが習慣的に当たり前になって、それに慣れてしまうと感謝できなくなるという性質を持っているようです。

例えば、炎天下の砂漠の中でのどが渇く状態が長く続いたとき、恐らくその時の一杯の水ほど感謝できるものはないでしょう。しかし、現代社会では蛇口をひねればいつも水があります。水がそばにあるのが当たり前になって、それに感謝するということにはピンとこないのではないでしょうか?

人間関係においても、いつも傍にいてくれる人が存在すること自体やその人がしてくれることが当たり前になると、相手への期待が知らず知らずに増えて感謝ではなく不満を感じたりすることが多くなるようです。つまり、心の奥から本当に「感謝」するためには、当たり前のようにあるモノや人の行為を当たり前だと思わない工夫が必要になってきます。

人間という生き物は「慣れ」という習性をもっております。それは様々な環境に適応するために必要な機能ですが、慣れ過ぎて感謝できなくなるというデメリットもあるようです。人が感謝しなくなると、慢心、傲慢、不満といった負のサイクルにはまってしまいがちになります。毎日を「感謝」するための工夫として、当たり前にあることを当たり前と思わないで、それに慣れない工夫を日常生活の中から実践することでしょう。

さて、今日はどれくらい自然体で感謝ができているでしょうか?

2012年6月8日金曜日

「下座行」

先日、致致という雑誌をめくっていていると、「思い上がらず、下座に徹して生きる時、天が君を助けてくれる」という森信三先生が残された言葉に目が止まりました。以前、森信三先生の「修身教授禄」という著書の中で「下座行」ということを説明されていて感銘を受けたことを思い出しました。

森信三先生のいう「下座行」とは、『自分を人よりも一段と低い位置に身を置くことです。しかもそれが「行」と言われる以上、その地位に安んじて、わが身の修養に励むことを言うのです。そしてそれによって、自分の傲慢心が打ち砕かれるわけです。すなわち、身はその人の実力以下の地位にありながら、これに対して不平不満の色を人に示さず、まじめにその仕事に精励する態度を言うわけです。これを「下座を行ずる」というわけです。』また、森先生は、この「下座行」は「人間を鍛えていく土台」というふうにもいわれています。

若いころはともかく、年齢を重ねるにつれてこの「下座を行ずる」ということを忘れがちになります。特に指導者的な立場に身を置いていると、知らず知らずのうちに「慢心」や「傲慢」な心がでてしまいがちです。50歳を過ぎてから、この「下座行」が毎日の習慣になるように色々と考えて工夫したいと考えています。

2012年3月17日土曜日

「仕事」と「責任」について

先日、スタッフと「仕事」や「責任」について考えてみました。

責任の範囲が広ければ広いほど、周りや社会に必要とされる範囲が広がり、自分の存在価値が高まり、自分を豊かにしてくれる。そして、その存在価値を高めることで、周りや社会から守られるのではないか?つまり、責任の範囲の広さが身を守ってくれる保険のような役割をしてくれているのではないか?などと考えてみました。

『三人の石切り工の昔話がある。彼らは何をしているのかと聞かれたとき、

第一の男は、「これで暮らしを立てているのさ」と答えた。

第二の男は、つちで打つ手を休めず、「国中でいちばん上手な石切りの仕事をしているのさ」と答えた。

第三の男は、その目を輝かせ夢見心地で空を見あげながら「大寺院をつくっているのさ」と答えた。』( マネジメント下:ドラッカー著より)

この文章から、第一の男は生活のために仕事をしなければならないと考え、第二の男は名声のために仕事をしなければならないと考え、第三の男は地域社会のために仕事をしなければならないではなく、したいという気持ちが伝わってきます。同じ仕事をしているのですが、この三人の中でどの男の人生が明るく豊かに見えますか?第三の男の生活は、物質面で豊かなのかどうかわかりませんが、明らかに心の豊かさを感じさせてくれます。

一般的に仕事は、「~ねばならない」、あるいは「~すべき」という義務的な感覚につながりやすいようです。確かに仕事をしなければ収入が得られずに生活ができない。色々な考え方の中に「~すべき」「~すべきではない」という倫理道徳的な義務感につながる考え方、あるいは信念的な制限が隠れていると、心身共に緊張が生じ、目には見えない慢性的なストレスとして病気などを引き起こしやすくするかもしれません。

私たちは、何らかの信念を持って人生を生きています。「信念岩をも通す」ということわざがあるように、信念をもつことの大切さを教えられてきました。人は、様々な信念に基づいて生きていますが、この信念の中には意識的に分かっている信念と、無意識的で普段は意識していない隠れた信念があります。コーチングではその隠れた信念による制限に気づき、それに代わる信念を見つけることで、学びを深め、さらなる成長へとつながることができます。

例えば、「私は~すべき」あるいは「~すべきではない」。または「Aさんは~すべき」あるいは~すべきではない」という信念がある場合、どんな気持ちになりますか?おそらく心地よくない感覚になり、身体も緊張するのではないでしょうか。「逆境から立ち上がる」というシナリオを好むタイプの人は、あえて自分をマイナスな状況に追いやって、その苦難から這い上がることをエネルギーにすることを好んで繰り返す人もいます。

もしも、「~しなければならない」という考え方に関して、行動するかしないかは別として、「~ねばならない」という考え方を捨てたらどのような感覚になるでしょうか。その「~ねばならない」という考え方を捨てて何も失うものがなければその考えを捨てるという選択ができます。多くの場合、その「~ねばならない」とう考え方を捨てても何も失うものがなく、習慣的に単に自分に制限を加えて窮屈にしていることが多いようです。

一般的に仕事の報酬は、「収入」や「地位」、あるいは「名声」というものを追い求めがちですが、田坂広志さんは、著書の中で仕事をすることによる「目には見えない三つの報酬」を述べています。

「仕事の報酬は能力である」

「仕事の報酬は仕事である」

「仕事の報酬は成長である」

仕事を通じて様々なスキルが身に付くと、その人にはその能力にあった仕事や責任、権限が与えられます。そして、様々な仕事を通じて、人間としての成長が約束されます。責任の質が高まることで成長も高くなります。その過程の背後にあるのは「継続的な喜び」です。その一方で、収入や地位を目的に仕事をした場合、その背後にあるのは、「一時的な喜び」と「義務感」ではないでしょうか?

さて、今与えられている「仕事」と「責任」をあなたはどのように考えますか?

2011年10月22日土曜日

「個人は質素に、社会は豊かに」 

先日、土光敏夫さんのことが紹介された新刊「清貧と復興 土光敏夫100の言葉」 出町譲 (著)を購入して読んでみた。

もう15年以上も前になるが、父が数十年前に購入していた1970年出版の「経営の行動指針」という土光敏夫さんの本を読んだことがあった。当時は、開業当初で、「経営のことも何か勉強しなければならないな・・・」という感じで、経営のことなどほとんどわからなかった。しかし、土光さんの本を読んでなぜか心に響くモノがあった。

特に「個人は質素に、社会は豊かに」という土光さんのお母様が残した言葉には感銘を受け、その言葉を筆でキャンバスの布に書いて、額縁にいれ、治療院に飾っていた時期があった。そして、その言葉の影響を受けて、「分相応に個人は質素な生活を心がけ、人々を豊かにせよ。」という言葉を創り、弊社の社訓の一つに加えさせていただき、未来のための指針にしている。

まだまだ、その言葉には近付けていないが、その言葉は確かに指針となっており、方向性を見失わないような羅針盤の役目を担ってくれている。

独身時代、収入も増えて、今よりも税金をたくさん払っていた時期があった。どうせ税金で払うのだからと、海外研修でビジネスクラスの座席を使ったことがある。土光さんには「そんな贅沢は必要ない」としかられるかもしれない。

飛行機での海外研修も最初のうちは、少しワクワク感を感じていたが、飛行機に乗る回数も増えてくるとそれに慣れてきてネガティブな感情が湧いてきた。恐らく、ビジネスクラスとファーストクラスとの比較が入り、その格差に不満、あるいは嫉妬心を抱いていたのかもしれない。そのようなネガティブな感情も重なって、ビジネスクラスに乗ってみた。

その時、ビジネスクラスを楽しむというよりも、ビジネスクラスに乗る乗客の人達を空港のラウンジでよく観察していたのを覚えている。どのような人達なのだろうか?お金にはゆとりがあるのだろうな~・・・ゆとりもないのに見栄をはっているのだろうか・・・どんな職業なのだろうか・・・など色々と想像を膨らませた。

それはそれで楽しい妄想だったが、なぜか自分にはしっくりこなかった。というよりも自分はビジネスクラスのタイプではないと感じたのかもしれない。

それ以来、ビジネスクラスにはご縁がなくなった。

現在では飛行機が海外を飛び回っている時代だが、飛行機が飛び始めた当時では、エコノミークラスの座席はとても贅沢な座席だったに違いない。

今では豊かになり、他との比較対象があるが故に、エコノミークラスの座席は贅沢ではなくなった。しかし、それはその人の心の持ち方で、豊かな気持にもなれはずだと、最近ではエコノミークラスを楽しんでいる。

質素な生活の中にこそ本当の豊かさが隠されているのかもしれない・・・