施術者:「その後、どうでしたか?」
患者:「前回いただいたアドバイスで、随分調子が良くなったように感じています・・・・」
イップスの症状程度も最悪を10とすると、3レベルまで改善していた。それは5回目の来院時のことだった。
患者情報:
四十代男性、音楽講師、20年以上前からイップスの症状を自覚していたとのこと。当時はそれがイップスだとは知らなかったが、最近になってイップスであったことに気づき、治る症状であるという情報を得てから来院。特に本番の楽器(ヴァイオリン)演奏で、ゆっくりとした右腕の動き(ボーイング)の際にイップスの症状を感じるという。個人練習の折にはその症状は感じない。症状の経過として改善は見られないとのこと。
初回の施術:
筋骨格系のハード面の目安検査では、両肩の動作、頸椎部の動作、右肘の動作で陽性反応。ソフト面の目安検査では、人前での演奏のイメージで陽性反応。ソフト面の検査の中で過去の「恐れ」の記憶が示された。当時、オーケストラの前で演奏するヴァイオリニストのトップ奏者だったとのこと。指揮者の前で納得のいく音が出せず、指揮者から叱責を受けた経験が引き金になったらしい。それ以来、指揮者や他のメンバーからの信頼を失う恐怖が心の奥に潜んでいるとのことだった。
2回目から5回目の施術:
2回目は2週間後に来院された。その間、身体に変化を感じたらしい。2週間ごとに来院していただきイップスに関係する誤作動記憶が徐々に改善されていく様子が伺えた。様々な誤作動記憶が消去されていく一方で、実際に人前で演奏する自信のレベルはかなり低い状態だった。20年以上も前からの症状なので、緊張するのが当たり前かのような学習もしっかりしている様子だった。
そして、5回目に来院された際にその後の経過を尋ねたところ、イップスがかなり改善されているとのこと。患者さん曰く、前回の施術の時、「人前では緊張するのが当たり前」ということが、「暗示効果」であったということは大きな気づきだったとのことで、他者との練習の際にも違和感はなく演奏できたとのコメントを頂いた。「人前で緊張すること」は、指導者からも聞いていたし、自分でもそのように思い込んでいたという。とても真面目で誠実な方なので、「人前で緊張する」ということに対して疑う余地もなかったのだろう。施術の過程で『それは「暗示効果」による影響で、脳が緊張するように学習されているだけなので、その暗示を「人前でも演奏に集中でき、喜びや楽しみを味わえる」などの肯定的な自己暗示に書き換えてはどうですか』というような内容で提案させていただいた。
患者さん曰く、そのような考え方はとても新鮮だったとのことで、「えっ、人前での演奏で緊張しない???・・・」、恐らくそのような考え方は有り得ないぐらいの思い込みだったのだろう。それまでの通院による施術のプロセスを通じて、それが「暗示効果」であったことが腑に落ちた様子だった。無意識の脳が、人前では緊張するのが当たり前という思い込み=信念を持っていると、自動的に心も身体も緊張する。もしも、緊張しないということは、脳にとって「ルール違反」になるので、そんなことは有り得えないとなる。人によっては『誰でも本番でプレッシャーを感じるのが当たり前だから・・・』とアドバイスを受けると、緊張がほぐれる人もいる。
人前での緊張やプレッシャーに対する捉え方、受け止め方は人それぞれである。人前で緊張するという思い込みから、緊張しないという思い込みに換えれば良いという単純なものではない。まずは、「多くの人に見られるという場面で、何がその人を緊張させるのか?」「どのように人に評価、判断されることを恐れているのか?」「ネガティブな評価で失うものは何なのか?」などを明確にする必要があるだろう。緊張はその人にしかない経験などに基づく信念や価値観が背後に関係している。
本症例のクライアントさんは、4回目の施術の際の気づきの前に、通院過程で、イップスの背後に隠れていた信念や価値観をすでに探索しており、それに関係する誤作動記憶は調整していた。だから、本番で緊張するのが当たり前という考え方が「暗示効果」によるものだったということが腑に落ちたのだと思う。通院過程でイップスに関係する誤作動記憶の点と点が線と線になり、さらに面と面になって、イップスを引き起こさせる犯人の立体像が見えてきた感じだろう。
大きな気づきを得た後の5回目の施術の際、誤作動記憶を検査していると、脳幹脊髄系(五感適応系)→身体感覚→接触→顎とバイオリンという反応が出た。クライアントさんに心当たりを尋ねてみると、正面のお客さんから顔を遠ざけるように、斜に構えて演奏しているらしい。恐らく、お客さんから見られる→プレッシャー→避ける→顎とバイオリンの接触という一連の緊張の条件付けが脳に学習されていたのだろう。そのような身体感覚とメンタル面に関係する誤作動記憶の状態を認識された上で、「次回はどのように演奏されますか?」と尋ねたところ、『「見られる」から「見てもらう」という感覚で自由に楽しんで演奏しているような・・・』と言われていたので、その理想の状態で検査をすると誤作動の反応は示されなかった。
考察:
本症例の発症当時は、「イップス」という言葉自体が知られておらず、また、そのような症状が治るものだということも知られていなかった。最近ではインターネットなどを通じて、心と身体の関係性が徐々に一般の人にも知れ渡り、少しずつではあるが、改善の可能性を求めて、私たちのような治療者に期待を寄せていただいている。「イップス」の症状を改善するにあたって一番大事なことは、「無意識」の脳の誤作動記憶が引き起こしているという理解だろう。身体の動作のほとんどは「無意識」によってコントロールされているのであって、「意識」のコントロールはほんの一部である。
本症例では、通院過程における治療体験を通じてだんだんと理解が深まっていることを肌で感じる。心と身体の関係性がもたらす「無意識」に対する理解は、個人差があって当然だが、理解が深まるほど治療効果も高くなるというのは共通しているように感じる。このような治療法を提供する側の責務として、もっと一般の人が理解しやすいような説明の仕方をさらに工夫する必要があるだろう。このような治療法は、機械構造論の思想による影響が根強く、まだまだ「不思議な治療」として受け止められがちである。既存の固定観念を崩していくことは並大抵のことではないが、将来、このような治療法が当たり前になる社会を創るためにコツコツと研究を継続しながら、成果を書き残していきたいと思う。