私たちは、日頃から誰かに「頑張ってね」と声をかけたり、「努力しなければ」と自分に言い聞かせたりして、日常的に使います。似たような言葉ですが、大きな違いがあるあります。一般的に試合前には「頑張って〜」と応援しますが、「努力して〜」とは言いません。
「頑張る」ことや「努力すること」は美徳かのように言われがちですが、スポーツや武道の試合結果を振り返り、頑張りすぎて本来の力が発揮できなかったというアスリートの話はよくあります。しかし、努力しすぎて本来の力が発揮できなかったという話はほとんど耳にしません。「頑張る」と「努力する」は、どのような違いがあるのでしょうか?
例えばスポーツに例えると、努力して結果を出すということは、長期的にコツコツとトレーニングを繰り返し行うことで自然に結果が伴うということです。1日努力したからといってすぐに結果が出るわけではありません。トレーニングをコツコツと長期的に積み重ねることで、無意識的に脳に学習され、それに伴って身体能力が上がってくるわけです。
その一方で、頑張って結果を出すということは、短期的に、今の自分の力を発揮するということです。意識的に脳を活動させようとするわけです。つまり、頭で考えて身体を動かそうとします。「火事場の馬鹿力」という諺がありますが、その場合は、単に意識的に頑張るという以上に無意識的な筋肉の働きが作動して、普段の頑張り以上の力が発揮できるようです。
先日、バドミントンの選手が準決勝で敗れた原因を分析すると、頭(意識)で戦略を考えすぎて、本来の力が発揮できなかった可能性があるということがわかりました。アスリートが「ピークパフォーマンス」、あるいは「ゾーン」といった精神状態でプレーしている試合を振り返った場合、そのようなアスリート達は頭(意識)で考えてプレーしているでしょうか?いいえ、多くの選手は無我夢中でプレーしているのではないでしょうか?
最高のパフォーマンスを発揮したプレーヤーは、試合に集中して、自分自身に対してああしろ、こうしろなどと意識的に指示を出したり、どうしたら相手に勝てるかなどと頭で考えてプレーしていないでしょう。恐らく今まで努力してきた練習や試合の経験が脳に蓄積され、プログラム化された通りに「無意識」が身体を自然に動かしてくれるといった感じではないでしょうか。
無意識だからといって何も考えていないわけではないでしょう。「雑念がない」という言葉の方が適切かもしれません。いつもの練習通りに、あるいはそれ以上に相手への意識が高まっているかもしれないし、シャトルやコートに意識が集中しているかもしれません。どこへ動き、どこへ打つかは、今まで培った練習の成果や経験で脳にプログラム化されているはずです。脳に蓄積されたプログラムを信じて、あとはそれに委ねるだけです。
試合でベストなパフォーマンスを発揮するためには、頭(意識)で「頑張る」というよりも、今まで培った努力の成果を無意識に発揮させるということになるでしょう。試合の戦略、戦術も練習で努力して脳にできる限りプログラム化し、本番ではそれを無意識的に使うということになるでしょう。何をするという意識的な命令ではなく、それはあたかも「自然」に動いているという感じで最高のパフォーマンスに達するのだと思います。
試合中では、瞬間瞬間に様々な動きが要求されます。肉体のどこどこの部分にどのように動けと意識して考える余地は残されていません。いわんや、戦略を考える余地などないはずです。自分の努力の成果によって無意識に発揮できる自分自身を信頼して、無我の境地でプレーするのがベストなのです。
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